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明石原人と浜の道(距離:約9km)
山陽電車西新町駅
 ↓ 700m
船上城跡〔新明町〕
 ↓ 300m
密蔵院〔船上町〕
 ↓ 100m
望海浜公園〔船上町〕
 ↓ 400m
若宮神社〔林2丁目〕
 ↓ すぐ西
宝蔵寺〔林2丁目〕
 ↓ 700m
林崎漁港
 ↓ 300m
岸崎(貴崎神社)〔林崎町3丁目〕
 ↓ 800m
赤石川と赤石〔松江〕
 ↓ 500m
藤江の浦〔藤江〕
 ↓ 600m
御崎(山王)神社〔東藤江2丁目〕
 ↓ 200m
青竜神社〔藤江〕
 ↓ 200m
竜泉寺〔藤江〕
 ↓ 1200m
長光寺〔大久保町谷八木〕
 ↓ 800m
明石象化石発掘地〔大久保町八木〕
 ↓ 600m
明石原人腰発見地〔大久保町八木〕
 ↓ 1500m
山陽電車江井ヶ島駅
 明石原人と浜の道は山陽電車西新町駅から始まる。駅の南側にに降りると、商店街が続いている。そのまま、南下していくと信号のある交差点にたどりつく。この交差点を右に曲がる。この道路は旧国道250号線で、浜国道と呼ばれている。コンビニを過ぎ、2つ目の信号の交差点で左へ曲がる。歩いていくと右手に案内図があり、その案内図に「船上城跡」がある。これを参考に、案内図の裏側に田んぼが広がっており、小高い丘の中に船上城跡がある。やや遠回りとなるが、住宅街に入り、田んぼのあぜ道を歩いていくとよい。
船上城跡」(ふなげじょうあと)
 古くは室町地時代の赤松氏が砦を築いたのが始めてある。この頃が明石の中心地であった。別所時代には林ノ城という小さな城となった。三木城で合戦で羽柴秀吉に攻められて落城し、蜂須賀小六などが城主となり、1585年に高山右近が高槻城から国替えとして移ってきた。高山右近が本格的に築城したのが船上城である。
 江戸時代になり、1617年に小笠原忠真が信濃国松本城から移ってきた。忠真は新たに明石城を築き、本拠を移したので船上城はその役目を終え、廃城となった。織田家長屋門は当時の侍屋敷の門だったと言われている。
 先ほどの案内板のあった道まで戻り、次の交差点を左へ曲がる。目印としては、曲がった先にはスーパーがある。そして、スーパー前の交差点で右へ曲がり、歩いていくと左手に密蔵院がある。また、密蔵院の南隣に望海浜公園がある。
「密蔵院」(みつぞういん)
 巨大なお地蔵さんがあり、密蔵院報徳大地蔵尊である。真言宗大覚寺派護国寺密蔵院は、平安時代の904年に創建されたと伝えられる。室町時代にはこの地方の中心都市、8つの末寺があった。
 境内の東南隅に小さなお堂がある。このお堂の中には、「油掛地蔵」が祀られている。水掛地蔵は多いが、油を掛けるのは珍しい。このお地蔵さんには開運・健康・安産によい。
 毎年8月23日と24日には地蔵盆が開かれ、夜店も出てにぎわっている。
「望海浜公園」(ぼうかいはまこうえん)
 旧国道250号線の大観橋南から明石川西岸一帯にある公園である。また、大観橋を起点に海岸に沿って加古川まで続くサイクリングロードのスタート地点でもある。
 現在は、護岸のためにコンクリートで固められているが、江戸時代には白砂青松が広がっていた。明石城主の好みの景勝地であり、茶亭も建てられていた。昔を偲ぶことはできないが、松林が残っている。
 望海浜公園の西端に道路がある。この道路を北上していく。Tじ交差点に差し掛かるが、左へ。再びT字交差点で右へ。そして再びT字交差点で右へ行くと若宮神社がある。また、その隣が宝蔵寺である。
「若宮神社」(わかみやじんじゃ)
 その昔、和坂村、松江村、林村などの各名主は、正月には上宮明神(林神社)に集まるのが習わしとなっていた。しかし、席順を決めるのに、各村の威信があるので、毎年のように争っていた。これに嫌気をさした林村の名主である角屋掃部が船上村の山王権現に勧請し、若宮大明神と氏神にしたのが始まりである。
「宝蔵寺」(ほうぞうじ)
 真言宗大覚寺派海門山宝蔵寺で、密蔵院の末寺である。地元の人は毘沙門さんと呼ぶことからわかるように、毘沙門天が祀られている。
 高山右近はキリシタン大名であり、明石に来る際にはキリスト教に改宗される恐れから、明石の僧たちは危惧していた。秀吉の母である大政所に助けを求めたが、逆に秀吉の怒りを買い、宝蔵寺の僧たちは江井ヶ島に逃れていた。右近は、空き家の宝蔵寺を教会とし、布教に努め、キリシタン禁令によって追放される2年間で明石で2000人の洗礼者を越えた。右近が去った後、熱心な信者が十字架をこの寺の壁に埋め込んだとされる。
若宮神社の鳥居からそのまま南へ歩いていくと海にたどりつく。この一帯が林崎漁港である。
「林崎漁港」(はやしざきぎょこう)
 明石市内にある漁港のうち、もっとも大規模な漁港である。ほとんどがこの漁港で水揚げされて、明石市公設地方卸売市場へと運ばれる。
 林崎漁港内を東西に伸びる道路を西に向かって歩いていく。林崎漁港の西端から北へ向かって上り坂になっている。そして、すぐに左手に道があり、歩んでいく。老人ホームの反対側に小さな祠があり、これが岸崎である。
「岸崎(貴崎神社)」(きさきじんじゃ)
 「ちりんどう」と言う小さな祠である。このお堂が、林神社の御旅所と言われている。
 そのまま西に向かって歩いていく。やがて、左手に下って海岸に続く道がある。この道を目印に、海側に、赤石が海底にある。また、この周辺を藤江の浦という。
「赤石川と赤石」(あかいしがわとあかいし)
 赤石川とは東松江川であり、赤石とは、約15m沖の海中に巨大な赤い石があり、明石地名の由来はここからである。
 赤石は、旧暦3月3日の大潮干潮時に、渚から見えるということで大勢の見物人が集まってきた。この見物は「赤石見」と言い、終戦の頃まで続いていた。現在は海水が汚れていて見ることはできない
「藤江の浦」(ふじえのうら)
 万葉集に柿本人麻呂が次の歌を詠んだ。「あらたへの 藤江の浦に すずき釣る 海人とか見らむ 旅ゆく吾を」
 このように、藤江の浦は柿本人麻呂や山部赤人ら万葉歌人によって、古くから詠まれている。淡路島を望む断崖の連なる海岸は素晴らしいものであった。しかし、海岸侵食の非常に激しい海岸でもあったので、戦後の護岸工事から素晴らしい光景は一変した。
 海岸沿いにそって歩いていく。この浜辺は松江海水浴場として夏場は海水浴で市内のみではなく、遠方からもやってくる。
 松江海水浴場をすぎると、道路がわずかだが下っている箇所がある。その箇所の右手に伸びている細い道を歩む。幾度か小さな交差点にあたるが、そのまま直進していく。やがてやや大きな道路の交差点を左に見ると御崎神社と青竜神社の案内板がある。それに従い、川沿いにそって歩いていくと、浜国道の左側に青竜神社、さらに奥右手に林があるが、そこに御崎神社がある。
「御崎(山王)神社」(みさき〔さんのう〕じんじゃ)
 由緒によると、南北朝時代の応安5(1372)年に勧請、山王権現と称したというがもっと古いと考えられている。明治の初めに御崎大明神と改称し、さらに御崎神社となった。
 市の無形文化財である「藤江の的射として知られている。
「青竜神社」(せいりゅうじんじゃ)
 慶長6(1254)年9月25日、藤江村に上宮青竜五社大明神(林神社)を勧請、社殿を建てて青竜神社と称した。この地には厳島神社があったが、末社となった。
 この地は海抜14mと小高い丘になっており、海水面が高かった縄文時代にはちょうど海に面していた。この地から土器や石鏃などが発掘されており、重要な地とされていたと考えられる。
 先ほどの2つの神社の案内板があった橋まで戻る。道路を西に歩んでいくと、上り坂に差し掛かった、右手に竜泉寺がある。
「竜泉寺」(りょうせんじ)
 臨済宗妙心寺派の寺である。1803年に火災に遭い、その際に全てが焼失してしまい詳しい縁起はわかっていない。1254年に開かれたとされ、当時は真言宗であった。1701年に中興し、その際に臨済宗に改宗した。
 現在の本堂は昭和16年に新しく建てかえられた。また、この寺には山門がない。その理由は、終戦後4〜5年頃まで境内に大きな松があり、1本だけでその枝が寺を覆うほどだったという。これが山門代わりとなって、松の枝をくぐってお参りしていた。盆が来ると、枝に提灯を釣って踊っていた。松の木が枯れて久しいが、現住職は山門を建てると海の眺望が失われる理由で再建はしないという。
 そのまま道路を西に向かって歩いていく。この道路は浜街道という、西国街道とともに主要な街道であった。浜街道は道中に白砂青松、きれいな海を眺めながら進むので開発されていなかった江戸時代当時はかなりきれいであったと思われる。
 しばらく歩いていくと、やや大きな川に差し掛かり、橋を越えると上り坂になる。橋から見て大きな屋根が見えるが、それが長光寺であるのでそれを頼りにたどりつくとよい。
「長光寺」(ちょうこうじ)
 奈良時代に行基が開いたといわれる天台宗の寺院である。本尊は薬師如来像で行基作と言われている。
 元はもっと海よりにあったとされるが、侵食に伴い内陸に幾度か移転している。そのせいか、この寺の歴史を語るには侵食が常に付いている。行基は海蝕をを防ぐために波止石を築かせたり、明石城主の松平信之は風防と砂止めのために長さ80間にわたって松を植えたとされる。そのまた、戦前は寺門には「鶴松庵」という離れ座敷があり、その横には神功皇后の水先案内を務めたという井上家の別荘の旅館もあったが、海食佐用で全てなくなった。
 南の山門をくぐると海に出る。海岸に沿って西へ歩んでいくと、むき出しになった地層が現れ、明石像化石発掘地があり、さらに西に進んでいくとマンションの隣に明石原人腰骨発掘地がある。
「明石象化石発掘地」(あかしぞうかせきはっくつち)
 昭和2(1927)年11月26日、大蔵谷で療養していた直良信夫は、日課にしていた海岸の散歩中、西八木付近で休憩のために腰を下ろしていたところ、屏風ヶ浦の地層から旧象の臼歯と瑪瑙の石器を発見した。当時は、日本には旧石器時代はないと考えられていたので、画期的な発見だった。「パラステゴドン・アカシエンシス」と名づけられ、アカシゾウ(アケボノゾウ)として学問の世界に広まった。
 後に、神戸市西区伊川谷町でアカシゾウの化石が発見されたが、この地層は屏風ヶ浦の地層と同じである。
「明石原人腰骨発見地」(あかしげんじんようこつはっけんち)
 昭和6(1931)年4月18日、直良信夫は再び大きな発見をすることになる。今回は、化石化した人間の腰骨である。しかし、学会はすぐに認めず、機会を待つ間に東京大空襲によって消失してしまった。昭和22年長谷部言人が明石原人と命名したが、あまり喜ばなかったようである。また、命名はしたものの、現在でも論争は相変わらず続いている。しかし、発見地の再調査から、人工の木製品が見つかっており、近いうちに正式に認められるであろう。
 さらに西へ進んでいくと、ヤシの木が立つ、海水浴場にたどりつく。ここが江井ヶ島海水浴場である。ここを北へ向かって伸びる道路を歩んでいくと山陽電車江井ヶ島駅にたどりつき、今回の散策は終わる。また、この道路をそのまま30分ほど北上していくとJR大久保駅にたどりつく。
(平成15年7月2日)

説明文の参考文献:
明石文化財調査団 編『新明石の史跡』あかし芸術文化センター、1997年
『明石市案内図』明石市市長広報公聴課、1995年
財団法人兵庫県学校厚生会 編『明石ゆかりの人びと』神戸新聞総合出版センター、1999年




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