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別府鉄道跡を歩く(2003年10月下旬)


 はじめに
 別府と書いて九州の「べっぷ」とは読まず、「べふ」鉄道と読むこの電車を知っていますか?昭和59年1月31日をもって営業を終了した、兵庫県播磨町と加古川市を走っていた土山〜別府港(土山線)、野口〜別府港(野口線)の2線のミニ私鉄です。親の証言によれば僕は別府鉄道に乗って鶴林寺まで行ったことがあるようです。営業終了日を基準としてもまだ幼稚園にも入っていない年齢ですので覚えていませんが、これが事実であれば乗った事のある電車の中で廃止第1号ということになります。もっとも、第2号はありませんので最初で最後のはずですが・・・ともかく、もっとも身近であっただろう別府鉄道跡を今更ながら歩いてみることにしました
 その前に別府鉄道について軽く説明します。
 別府鉄道の歴史

 別府鉄道の親会社は多木化学という化学肥料などの製造会社で、播磨灘に面する播磨町最大の工場の1つです。設立の歴史は古く、明治18年創業となっています。創設者は今後は化学肥料が重要な時期になると予想し、業績が大きくなってきました。大きくなるとその化学肥料の輸送手段が必要となり、大正4年に別府港駅〜野口駅(野口線)で別府鉄道が開業しました。野口駅〜加古川駅には播丹鉄道(当時)の高砂線を利用して国鉄の動脈線である山陽本線へとつながっていました。言うまでもなく、当時はトラックはほとんどなくて鉄道輸送が主な手段でした。車両編成は、貨物車両と旅客車両を一緒に連結する珍しい編成でした。大正14年、現在のJR山陽本線へ短縮ルートとなる土山駅〜別府港駅も開業し、同時に野口線での貨物営業は終了したため、主な収入源は野口線は旅客、土山線は貨物となっていました。ただ、別府鉄道にはライバルとして山陽電鉄や神姫バスなどがあり、旅客収入はよくなかったようです。各種文献を読み漁っても、車内はガラガラで貨物だけ運んでいる感じでした。現在でこそ別府港周辺は工場に囲まれていますが、大正〜昭和にかけては工場もほとんどなく海水浴も楽しめたようで、海水浴シーズンのみが旅客で賑わっていたようです。裏を返せば、海水浴シーズン以外はガラガラであったということになります。その結果、別府鉄道を支える生命線は貨物となり、貨物がなくなると営業危機から廃止が待っているという状況であったと考えられます。
 戦後、時代の波は急激に変化し、海水浴場は昭和41年に閉鎖されて逆に工場は乱立、輸送手段もトラックへと変わったため主な収入源であった貨物もなくなりつつあり、また、国鉄ダイヤ改正によって国鉄土山駅の貨物ターミナルとしての機能が廃止されることもあって、別府鉄道は土山駅の貨物営業が終了する直前の昭和59年1月31日に幕を下ろすことになります。営業終了のこの日は珍しく大雪が降り、周囲の交通がマヒする中で獅子奮戦しました。鉄道の最大の長所であるいかなる悪天候でもダイヤどおりに動くという事を最終日ながら思わされたことでしょう。
 別府鉄道は土山線開業と同時に多木化学から独立していたため、主にタクシー事業として現在も別府鉄道の社名で営業しています。残された路線の敷地は、別府鉄道側から譲渡条件として主に歩道などにすることとされていたため、土山線は「であいの道」、野口線は「松風こみち」として再整備されました。この2つの道は本当に狭く、それがミニ私鉄と思わせつつ、両側は住宅に囲まれていますので本当に走っていたのかと不思議に思いたくなります。しかし、廃止から20年近く経ち、沿線はベッドタウンとして新興住宅も建てられつつありますが、転入者の中で別府鉄道の存在を知っている人はごくわずかであろうと思われます。さまざまな写真から昭和59年ころの播磨町周辺はのどかな田園地帯であったと思われますので旅客は少なかったでしょうが、ベッドタウンと化した現在に別府鉄道が走っていれば旅客収入は高くて続いていたかもしれません。

 野口線
 野口線は、播丹鉄道時代の野口駅から別府港駅まで3.6kmの路線です。途中駅は、野口⇔円長寺⇔坂井⇔別府口⇔別府港でした。所要時間は11分です。別府港以外はすべて無人駅であり、また、途中駅に停車したい場合は車掌さんに告げなければいけなかったようです。このことは土山線でも同様でした。
 さて、現在の野口線までは、まず、旧国鉄高砂線を廃線し、道路になった鶴林新道を歩くことになります。鶴林新道を歩いていくと、レールの上に車輪だけが残されている野口駅跡にたどり着きます。別府鉄道は野口駅から始まるのですが、この駅は島式ホームでお互いに1線ずつ共有していました。
野口駅全景 車輪 野口駅名標

鶴林新道の位置 野口駅跡の位置 松風こみち入口
 鶴林新道をさらに歩いていくと交差点にたどり着きます。交差点から先に遊歩道がありますので、そこから「松風こみち」になっています。上の地図でのカーブしていく道路が松風こみちにあたります。松風こみちの名前の由来がなぞだったのですが、この小道は最初から最後まで道の両脇に松が植えられていますのでこれが理由かと思います。以下の歩みは写真とともに地図を併せて紹介します。
残された線路1 松風こみちの風景1 現役で利用されている橋 円長寺駅跡の保存車両
松風こみちの風景2 残された線路2 現役のトンネル 現在の別府港駅跡
 松風こみちは途中で国道250号線(明姫幹線)で大きく途切れますが、ほぼ直線で道の向かい側からまた続いています。他にも色々と途切れましたが、残された線路から踏切があったようです。線路が残されている箇所も合わせて3ヶ所あり、駅跡も休憩所となっていますので、松風こみちは非常に保存がよい状態でしたので驚きました。
 円長寺駅跡の保存車両には、他にも3つの保存がありました。1つ目は踏み切り、2つ目は時刻表と運賃表、3つ目は昭和59年1月25日の廃線のお知らせ看板です。時刻表もお知らせもちょっとした落書きはありましたが、それほど目立つような落書きではなく、屋外に放置されていることを考えたら非常に奇跡に近い保存状態でした。ちなみにこの情報によりますと、運賃は大人が100円でこどもが50円で、定期も1ヶ月2700円(通勤)と1500円(通学)でした。終電が野口駅方面が18:04、別府港駅方面が18:28と非常に早いダイヤだったようです。
 松風こみちは主に通学路やウォーキングとして利用されているらしく、学校帰りの学生さんや健康のために歩く人たちがあちこちと見られました。松風こみちはやがて、山陽電鉄の別府駅真下近くのトンネルを通過すると終点になります。これから先はスーパーであるイトーヨーカドーの敷地に沿って道路が続いていますが、この道路に別府鉄道が続いていました。そのまま行くと別府港駅跡に到着します。現在の別府港駅跡にはタクシーとなった別府鉄道の本社があります。社章も多木化学と同じデザインです。この道路をさらに歩んでいくと多木化学の工場に達しますが、旅客営業はこの駅まででした。
 土山線
 土山線は途中駅が土山⇔中野⇔別府港と3駅しかありませんでした。所要時間は14分です。当時も今も土山駅周辺と別府港駅周辺を除いて住宅がまばらな状態ですので、当時はもっと田園的な風景が広がっていたことでしょう。
 さて、土山線は土山駅から始まるのですが、現在土山駅は橋上化工事中となっており、長らく残されていた広大なターミナル跡は今回の開発の手によってなくなりました。写真に残せなかったことが心残りです。それでは土山線の現在を紹介します。
現在の土山駅 であいの道入口 ふるさと橋
播磨町郷土資料館の保存車両
左:機関車
右:客車
整備された道路 残された貨車 現役のトンネル
 「であいの道」は地図ではちょっと細すぎるくらいに描かれています。実際は狭くはないのですが、ふるさと橋まで両側にマンションが立ち並びますので狭く感じると思います。であいの道を入ってすぐに記念碑がありますが、裏には別府鉄道について書かれています。これで別府鉄道の名前は永久に語り継がれるといってもいいでしょう。であいの道にも少し前まで松風こみちと同じように線路の一部が残されていたようですが、安全の為か撤去されてしまい、現在ではただの遊歩道でしか感じられなくなっています。
 歩いていくとふるさと橋にたどり着きます。この橋は別府鉄道が廃線になってから掛けられたもので、別府鉄道とは関係はないのですが、この橋は面白い橋だと気づきました。それは童謡の「ふるさと」の音階ごとに鉄琴が設けられ、メロディーを取りながら音楽演奏が楽しめることです。きちんと叩く道具も備えられていますので、誰でも自由に楽しめます。
 ふるさと橋を渡るとすぐに林に入ります。このあたりは、「大中遺跡」という県内でも大規模な古代遺跡で、復元された竪穴住居もあります。であいの道の終点には播磨町郷土資料館があり、ここでは機関車と客車が屋根付きで丁寧に保存されています。なお、郷土資料館開館日の16時までに受付に申し込むと、中を見学させてくれるようになっています。
 郷土資料館から先は「であいの道」はなくなります。というのも播磨町と加古川市の境界があるからです。行政の壁から境を越えての遊歩道は建設できなかったのでしょう。その結果、整備された大きな道路となり別府鉄道の面影は道筋でしかなくなります。川崎重工の工場を過ぎると右手に貨車が残されていました。今では倉庫として利用されているかもしれませんが、よく残されているなと思いました。
 明姫幹線を過ぎると徐々に道幅が狭くなり、当時から利用されているトンネルをピークに1車線になりました。この先は、駐車場にぶつかりますが野口線と合流し、別府港駅に到着します。
 最後に
 廃線となれば瞬く間に車両が廃車され、線路は撤去されて道路にされたり家が建ったりする運命の中、別府鉄道は緑地の歩道などとすることを前提にしたため、現在でも奇跡的に跡地を偲ばれるようになっています。車両も、播磨町郷土資料館と円長寺駅跡にも保存されています。しかも、車両の保存状態は非常によいのでこれもまた奇跡だと思います。
 廃線後20年近く経って初めて別府鉄道跡を歩いたわけですが、歩けば歩くほどこの道に続いていたんだと思うと同時に、詳しく知っているはずがないのに心の中からどことなく寂しさが感じられました。こんな別府鉄道でも日本の高度成長期を経験したわけですから、日本経済の発展を影ながら支えてきたということになるでしょう。そういった意味で、別府鉄道は線路も残されているし、車両も残っていますから、別府鉄道で働いていた人たちは誇りとともに幸せだったことと思います。
 いつかまた時代の波についていけなくなったときや壁にぶつかったとき、いつまでも変わらない2つの小道をまた歩くと幼い頃の自分の残像に合わせて立ち直れるような気がしました。


参考文献:安保彰夫著『RM LIBRARY38 図説 別府鉄道』ネコ・パブリッシング発行、2002年。







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