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浜の播磨路(距離:約8km) | ||
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「浜の播磨路」は山陽電車江井ヶ島駅から始まる。 改札を出て南側に5つの道路が交わる交差点がある。そのうち南側に伸びる道路に色づけされている道路があり、しばらくはその道路に沿って歩いていく。やがて、右手に大きな白い建物が現れるがこれが少年自然の家である。 |
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「少年自然の家」(しょうねんしぜんのいえ)
小・中学校、高校の児童・生徒の健康で豊かな人間性を育てる場として、また、青年のサークル、女性の会、高年クラブ、PTA、自治会などの、各種社会教育関係団体の研修を目的とした市立の施設である。宿泊施設も整っており、泊りがけで研修ができる。利用するのには前述の条件が必要で一般人は利用できない。また、夏休みは利用希望者が多いらしく抽選制となるため、明石市の広報に注意をしてください。 |
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色づけされた道路から、レンガが埋め込まれている道路に戻り、海の方向に下っていくと江井ヶ島海水浴場にあたり、西側に向かっていくと江井ヶ島港がある。江井ヶ島港を歩んでいくと右手に鳥居があり、そのまままっすぐいくと長楽寺と定善寺がある。 | ||
「江井ヶ島港」(えいがしまこう)
江井ヶ島の地名の由来は、大きなエイがこの地にやってきたからだと言われている。漁港としては市内としては中堅の規模である。また、江井ヶ島海水浴場が近くにあり、松江海水浴場とともに夏場は海の家が出てにぎわう。 |
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「長楽寺」(ちょうらくじ)
江井ヶ島は寺院の勢力が古くから強く、西部にかかわらず多くの寺院があるが、長楽寺がその中心である。744年、この地で社会事業をしていた行基が平安を願って地蔵尊を彫り、寺を立てて安置したのが開基とされている。 また1764年、この地に市内最初の小学校(寺子屋)が設けられた。1871年に郷学校となり、学制が公布された1872年に貫道小学校となり、これが現在の江井ヶ島小学校である。 |
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「定善寺」(じょうぜんじ)
長楽寺と同じく行基が薬師如来尊を安置したのがこの寺の始まりとされている。当時は3ヶ寺の大きな寺院であったが、盛衰が激しく荒れ果てた平安時代には百人一首で知られている行尊という平等院の高僧が再興した。現在では薬師堂のみが残っている。 |
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鳥居前まで戻り、そのまま西へ向かうと川に突き当たり、このあたりが名寸隅の船瀬と呼ばれていた。 | ||
「名寸隅の船瀬」(なきすみのふなせ)
このあたりは「魚住泊(うおずみのとまり)」という奈良時代の港があった。この魚住泊が万葉集で詠われた名寸隅だと言われており、場所的には赤根川の河口付近にあったとされている。魚住泊は行基によって築かれ、その後明石海峡の激しい潮流から一旦避けたい貿易船にとっては重要な休息地となった。つまり、現在の江井ヶ島港の基礎が魚住泊によってなされていたと言ってもよいであろう。 |
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橋を渡ってすぐ右に曲がり、北へ向かって歩んでいく。やがて左手に斜面へ延びる道路にあたり歩んでいく。この道路は浜街道である。新興住宅の中にある公園側に説明版があるが、このあたりに魚住城があった。 | ||
「魚住城跡」(うおずみじょうあと)
魚住城に関する資料はわずかではっきりしたことは不明である。魚住城が歴史上では重要であるには秀吉の三木合戦がある。魚住城は兵糧攻めにあった三木城側に明石鯛などの食料を送るために築城されれ、食料を運ぶには毛利勢による海上からの調達に最適な地とされていた。造りは柵をめぐらした簡単なもので、三木城が落城するとその役割は終了して廃城となった 現在は住宅地に囲まれているが、最近までは雑草に覆われた空き地であり、廃城の趣が少しあった。 |
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浜街道をそのまま西へ進んでいく。少し距離はあるが、やがて林が見えてくる。この中に住吉神社があり、その東隣に瑞雲寺、海側に住吉公園がある。 | ||
「瑞雲寺」(ずいうんじ)
もとは薬師院の塔頭である。行基が建立したと言われ、谷の坊とも呼ばれていた。 本堂の左前に忠霊塔があり、太平洋戦争で戦死した兵士、学徒動員で犠牲になった女学生など、中尾の49柱が眠っている。 |
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「住吉神社」(すみよしじんじゃ)
明石西部最大の神社である。境内には立派な楼門や能舞台もあり、いずれも明石市の重要文化財となっている。拝殿内には円山応挙が描いた「神馬の図」が掲げられている。 5月1日には能舞台にて能が演じられ、藤の花も咲いているのでにぎやかになる。 |
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「住吉公園」(すみよしこうえん)
淡路島を目の前に、小豆島や晴れれば四国も見える芝生のある広場一帯が住吉公園である。 |
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浜街道をそのまま西へ進んでいく。すると薬師院が見え、北側に天王神社がある。 | ||
「天王神社」(てんのうじんじゃ)
創建は1181年と伝えられている。この台地は聖武天皇が行幸した跡とも言われている。 本殿前の狛犬は珠を前脚で抱えており珍しい。 |
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「薬師院」(やくしいん)
全国的には「ボタン寺」としてよく知られている。4月下旬にはボタンが咲くが公開期間が短いので注意が必要である。 開山は730年ころの行基と言われており、880年代には七堂伽藍を有する大寺院であったが、南北朝時代に荒廃した。1380年頃に再興するが、よく戦乱の犠牲となり、現在の本堂は1657年に建立、1990年に大修復されたものである。 境内にてミニ四国88ヶ所巡りをすることができる。 |
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再び浜街道を西へ歩いていく、団地を過ぎると道は狭くなるが、そのまま直進していく。しばらくすると瑞応寺の案内道しるべがあり、それに従って左に曲がってそのまままっすぐ行くと瑞応寺がある。 | ||
「瑞応寺」(ずいおうじ)
東二見の人たちには「大寺」と呼ばれており、由来は江戸時代の檀家の教化によって菩提寺となっていた。そのときは「親寺」であったが、いつのまにか「大寺」と呼ばれるようになった。 創建は加古川にある鶴林寺ころであると言われるがはっきりしていない。境内には樹齢400年とも言われるソテツがあり明石市の天然記念物である。 江戸時代には寺小屋を開き、明治時代には「双見学校」となり、明治13年まで寺の本堂で行われていた。後述の威徳院と統合された「双鑑学校」が現在の二見小学校の前身である。 |
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浜街道に戻り、再び西へ向かう。昔ながらの雰囲気を残す商店街を左へ曲がると観音寺がある。 | ||
「観音寺」(かんのんじ)
最近、近代風に再建されたため趣が失ったのが残念であるが、臨済宗妙心寺派のお寺である。 境内には横河重陳の墓がある。横河は姫路藩主に仕えた人物で主に築城で活躍し、有名なものでは大坂城に8m×16mの巨大な蛸石があるが切り出したのは彼である。主な築城には江戸城や駿府城もある。江戸時代にはこの寺を修復し、京都の妙心寺から高僧を招いた。 |
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観音寺を出て、海へ向かう道を歩いていくと二見港があり、その対岸に明石海浜公園がある。 | ||
「二見港」(ふたみこう)
明石市西部最大の漁港であり、ヨットなどのマリーナ施設が充実している。釣り人のための貸し舟もここから出航している。漁業関係者だけではなく、釣り人にとっても大きな漁場であるので明石海浜公園を結ぶ道路筋には釣り用具店や釣りえさ店が密集している。 立派な二見港であるが江戸時代は片浜で工事が必要なほど漁港に適さなかった。 |
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「明石海浜公園」(あかしかいひんこうえん)
昭和50年に造成工事が完了した二見人工島は主に工業用地として活用されており、造船から飲料品などの工場に下水処理場などがあるが、明石市最大域の公園用地でもある。 明石市海浜公園には、プールや大小の運動場に野球場、テニスコートなどがある。また、人工島を囲む海は格好の漁場となるため、休日は多くの釣り人でにぎわっている。 |
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「極楽寺」(ごくらくじ)
今昔物語集にこの寺が記載されている。 現在の極楽寺は威徳院の管理地となっており、寺域も小さい。 阿弥陀堂の裏には「夜泣きの塔」があり、昭和始めに神戸の富豪が数百円で買い取って庭に置いたところ、以来富豪の家族には不幸が続いた上、「二見に帰りたい」と泣くので戻されたという。 |
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「威徳院」(いとくいん)
行基が開山したといわれる真言宗のお寺である。江戸時代、御厨神社の別当寺である海雲寺には2院4坊を有していたが、明治初期の廃仏毀釈によって威徳院は廃され、最蔵坊のみ残された。しかし威徳院の方が親しまれていたため、昭和16年に威徳院に改称した。 江戸時代には寺小屋が開かれ、後には二見小学校の前身となった双鑑学校が開設された。 |
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「御厨神社」(みくりやじんじゃ)
神社の名前である御厨とは台所という意味である。神社の御厨は伊勢神宮と加茂社に限られているが伊勢神宮とかかわりがあるのかどうかは不明である。 境内には管公腰掛松があり、菅原道真が左遷される際、立ち寄ったとされる。 |
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(平成16年3月22日) 説明文の参考文献: 明石文化財調査団 編『新明石の史跡』あかし芸術文化センター、1997年 『明石市案内図』明石市市長広報公聴課、1995年 財団法人兵庫県学校厚生会 編『明石ゆかりの人びと』神戸新聞総合出版センター、1999年 |