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HPトップ>光源氏と城下町の道

光源氏と城下町の道(距離:約5km)

山陽電車人丸前駅
 ↓ 100m
腕塚神社〔天文町1丁目〕
 ↓ 300m
休天神〔大蔵天神町〕
 ↓ 100m
稲爪神社〔大蔵本町〕
 ↓ 100m
大蔵院〔大蔵本町〕
 ↓ 400m
西林寺〔大蔵町〕
 ↓ 600m
中崎公会堂〔相生町1丁目〕
 ↓ 200m
子午線通過地標柱〔天文町2丁目〕
 ↓ 200m
忠度塚〔天文町2丁目〕
 ↓ 500m
朝顔光明寺〔鍛冶屋町〕
 ↓ 100m
浜光明寺〔鍛冶屋町〕
 ↓ 200m
魚の棚通り〔本町1丁目〕
 ↓ 200m
明石港
 ↓ 400m
本立寺〔日富美町〕
 ↓ すぐ東
竜谷寺〔材木町〕
 ↓ 200m
長林寺〔材木町〕
 ↓ 200m
岩屋神社〔材木町〕
 ↓ 300m
明石浦漁港
 ↓ 300m
伊弉册神社〔岬町〕
 ↓ 100m
無量光寺〔大観町〕
 ↓ すぐ東
善楽寺(戒光院・実相院・円珠院)〔大観町〕
 ↓ 600m
山陽電車西新町駅
 「光源氏と城下町の道は」は山陽電車人丸前駅から始まる。
 改札の前の道路が東西に伸びている。西側にある信号を渡ってそのまま歩んでいくとすぐ左手に腕塚神社がある。
「腕塚神社」(うでづかじんじゃ)

 一の谷の合戦において討たれた平忠度の右腕を奉っている。
 合戦の敗北から西に逃れていた忠度はここで岡部六弥太忠澄追いつかれ、刃を交えた。忠度が取り押さえて首を討ち取ろうとした時、忠澄の部下が一大事と駆けつけ、忠度の右腕を切り落とした。
その右腕を埋めた場所に腕塚神社が建っているわけである。
 腕の病に悩む人が訪れてくる。

(現地にて案内板及び説明板・説明紙あり)
 信号のあった道路に戻り、今度は南に進む。すぐに国道2号線にさしかかり、信号を渡らずに国道2号線を東に歩を進める。歩道橋側にあるのが「休天神」である。
 歩道橋を渡り、国道2号線をさらにすすんだ右手に林がある。そこに「稲爪神社」がある。
「休天神」(やすみてんじん)

 菅原道真が大宰府に左遷される際、明石で休息した。その時に道真が腰をかけた踞石に、道真の左遷を悲しんだ明石駅長が祠を建てて奉り、江戸時代になって藩主の松平信之が神社とした。

(現地にて案内板及び説明板あり)
「稲爪神社」(いなつめじんじゃ)

 推古天皇の頃、異国から鉄人8000人が攻めてきた。朝廷はわざと降伏し、東国へ迎え入れるために明石へ到着すると、稲妻が発生し、鉄人はたちまち討たれた。稲妻の中に三嶋大明神が現れたというので、この地に三嶋大明神を奉るために建てられた神社である。

 (現地にて案内板及び説明板あり)
 南側にある門から南に歩を進め、レンガブロック道路に従って歩いていく。
 やがて大きな交差点がある。東西に伸びる道路が西国街道である。その西国街道を西に歩を進める。すぐ左手に「大蔵院」がある。
「大蔵院」(だいぞういん)

 伝定朝作といわれる観世音菩薩を本尊とする臨済宗の寺である。嘉吉の乱において、将軍足利義教を討った赤松満祐の弟である祐尚が創建したと言われている。
 祐尚は、嘉吉の乱において幕府の追討軍に討たれた。祐尚夫婦の墓が大蔵院にある。

(現地にて案内板及び説明板あり)
 今度は逆に東に歩を進めていく。しばらくすると右手に「西林寺」がある。
「西林寺」 (さいりんじ)

 真宗大谷派の寺である。
 戦中、東京を焼かれた永井荷風がこの寺で寄宿した。しかし、間もなく明石も空襲に遭ったために再び逃れたため、10日間の短い滞在であった。それでも、明石の自然や人情は、荷風の傷心を癒した。詳しい内容は『罹災日録』に書かれている。

(現地にて案内板あり)

 さて、前述のようにここは西国街道。この周辺は「大蔵谷の宿場」があった。その趣きを残すように所々で古い民家が建ち並んでおり、左写真の民家は市によって風景文化財として保護されている。改築の際には趣きがなくなるのが常ではあるが、ここではできるだけ趣きを残そうと努力しているのが見られた。

 そのまま東に歩を進めて行くと、すぐ右手にカラーブロックの道があるので、それに従って南に進める。階段を上って交通量の多い道路(国道28号線)に合流する。国道28号線を西に歩を進める。やがて、右手に松林の中に建物がある。これが「中崎公会堂」である。
「中崎公会堂」(なかざきこうかいどう)

 明治44年7月27日に開館した多目的ホールである。こけら落としの日には夏目漱石が「道楽と職業」という題で公演した。現在でも有名落語家による寄席が開かれている。

(現地にて案内板及び説明板あり)
 中崎公会堂側にある道路から北に伸びている道を北に歩を進める。おいしい料理で有名な「人丸花壇」前を過ぎ、交番がある。交番の側に立っている標柱が「子午線通過地標柱」である。
「子午線通過地標柱」(しごせんちゅうかちひょうちゅう)

 明治21年1月1日午前0時。東経135度の子午線が日本の標準時子午線となった。しかし、当時は現在と違ってほとんど関心がなく、明治43年に当時の明石群内の先生たちが私費を投じてこの花崗岩製の標柱を立てた。
 現在まで2度もずれが見つかり、その度に移動されてきた。

(現地にて案内板及び説明板あり)
 そのまま北に進むと2号線に再び合流するわけであるが、その1つ前の交差点を左に曲がる。そのまま歩を進めていくと「忠度塚」がある。
 ちなみに、右後ろにある建物は裁判所である。
「忠度塚」(ただのりづか)

 忠度は明石の地で討たれた。その亡骸をこの地で埋めて供養したのが忠度塚である。
 薩摩守平忠度は、平清盛の末弟である。武芸に秀でており、和歌の千載集に「さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」に詠み人知らずとして選ばれている。その才能は敵味方から惜しまれた。

(現地にて案内板及び説明板あり)
 そのまま西へ歩いていくと、交通量の多い道路に合流する。その道路に従い左へ。つまり、右手に国道2号線があるが、それとは逆の方向に歩を進める。
 パーキングチケット発給機のある道路である。そのまま歩んでいくと右手にお寺がある。これが「朝顔光明寺」である。
「朝顔光明寺」(あさがおこうみょうじ)

 ここは藩政時代の明石城東入り口である京口御門が置かれた場所でもある。
 正式名称は、真宗月池山光明寺という。 この寺は、源氏物語の主人公である光源氏が「秋風や 波やこすらむ 夜もすがら あかしの浦の 月のあさがほ」と詠んだと伝えられる月見の池が門に入ってすぐ左手にある。これが朝顔光明寺と呼ばれる所以である。

(現地にて案内板及び説明板なし)
 さらに西へ歩んでいくと交差点がある。左に(南に)曲がり、すぐ左手に「浜光明寺」がある。
「浜光明寺」(はまこうみょうじ)

 この寺は鎌倉末期に三木で創建され、江戸に入ってから現在地に移された歴史を持つ。その後、明石の浄土宗の中心的寺院となった。戦火を奇跡的に免れた立派な本堂は、明治18年8月9日の明治天皇の山陽道御巡幸において宿泊所とされた。当時の関係遺品は天皇行在所跡として市の指定文化財に指定されている。

(現地にて案内板及び説明板あり)
 北へ歩を進め、すぐ左側に活気のある商店街がある。これが魚の棚商店街であり、この通りを「魚の棚通り」と呼ぶ。
「魚の棚通り」(うおんたなとおり)

 「魚の棚」は明石訛りで「うぉんたな」と読む。
 明石はもちろん、遠方の地域から新鮮な魚介類を求めて買出しにやってくる。その新鮮さはトロ箱からタコが逃げ出すほどである。

(現地にて案内板あり)
 魚の棚通りをそのまま真っ直ぐ通り過ぎ、出口の前の道を左に(南へ)歩を進める。信号を渡ると明淡高速船の待合所がある。待合所の側から東西に伸びる道がある。そこを西に歩を進める。なお、東に歩を進めると「昼網」という夕方に店頭に出されるための魚介類のセリ場がある。朝のセリは「明石市公設地方卸売市場」で行われるが、昼網用はここで行われている。
 西に歩を進めて行くと、海が見え、たくさんの漁船が見える。これが明石港である。
 道が途切れると、目前に公園がある。その後ろ側に道路がある。目印は炭店の前に伸びている道路である。その道路をさらに西に進めて行く。
 信号のない交差点を通り過ぎ、あゆんでいくと寺が見えてくる。それが「本立寺」である。また「竜谷寺」はその途中にある。
「本立寺」(ほんりゅうじ)

この寺には江戸の大名たちが、明石に住ましてはもったいないと言われた儒学者の梁田蛻巌(やなだぜいがん)が眠っている。梁田蛻巌がどのくらい偉いというと、正徳の政治を行った新井白石と同じくらいである。

(現地にて案内板及び説明板なし)
「竜谷寺」(りょうこくじ)

 臨済宗妙心寺派に属する禅宗の寺であるが、「こんぴらさん」として親しまれている。山門を入ってすぐ右手に琴平神をまつったため、今日までこんぴらさんと呼ばれているようである。

(現地にて案内板及び説明板なし)
 竜谷寺への1つ前の交差点へ戻る。南側へ歩を進め、また、次の交差点で左に曲がる。広い道路の交差点にたどり着き、右へ(南へ)歩を進めると右手に「長林寺」があり、少し先の左手に「岩屋神社」がある。
「長林寺」(ちょうりんじ)

 藤原不比等の3男宇合が創建したと伝えられ、浜薬師の名で親しまれている。

(現地にて案内板及び説明板なし)
「岩屋神社」(いわやじんじゃ)

 祭神はイザナギノミコトなど6神であり、稲爪神社と並ぶ民神である。もとは岩屋恵比寿とよばれ、1月10日にえべっさんが開かれる。
 この神社では旧暦6月15日の夏祭りに「オシャタカ舟」の海上渡御がある。「おしゃたか」とは明石方言で「おじゃったかなあ」がなまったものであり、この場合は「神様がおこしになったか」という意味である。海に投げ入れられた1,5mの小さな船は、氏子の青年たちによって「おしゃたかー、おしゃたかー」と唱えながら、泳ぎながら舟を頭上にかかげ投げたりする。このおしゃたか舟神事は市の無形民俗に指定されている。なお、オシャタカ舟は常時は本殿内に配列されている。

(現地にて説明板あり)
 岩屋神社の南側にある正門から南に歩を進める。やがて「明石浦漁港」に着く。
 漁港前から東に伸びている道路に歩を進める。造船所を過ぎ、漁協にたどりついたら右手のそばに小さな祠が見える。そこの側から北へ伸びる道路を歩んでいく。やがて、交差点に達し広い道路に合流するが、そこで左に(西に)曲がる。しばらくして、左手に見えるのが伊弉冊神社である。
「伊弉册神社」(いざなみじんじゃ)

 イザナミノミコトは、イザナギノミコトとともに古事記に出てくる男女神である。
 たびたび兵火に遭い、嘉吉の乱に伴う和坂の合戦(1441)や秀吉の三木城攻防戦(1578)などで、社殿・旧記はことごとく焼失した。現在は昭和37年に再建されたものである。

(現地にて案内板及び説明板あり)
 さらに西に進んでいくと、交差点がある。その交差点で右へ(北へ)進む。
 しばらくするとお寺が固まっている。これらが善楽寺である。
 山門の左側に細い道が伸びているその行き止まりが、無量光寺であり、その脇にさらに細く伸びている道が「蔦の細道」と呼ばれる。源氏物語ゆかりの道である。(左写真)
 源氏物語によると、光源氏は明石に客分として迎えられた時、明石入道の強い願いで娘と結ばれた。娘の住む「岡辺の宿」へ妻問う時に通った道が蔦の細道である。ただし、蔦の細道は源氏物語には書かれていない。ルーツは「伊勢物語」にあり、こちらの実在の人物である在原業平と光源氏を重ね合わせたものを、文学好きの時の藩主松平忠国が遺跡として創り上げた物である。
「無量光寺」(むりょうこうじ)

 浄土宗本派の寺であり、山門は名工といわれた左甚五郎が造ったといわれている。
 大正時代は文学者間では有名な寺とされ、武者小路実篤や有島武朗などがこの寺に訪れた。

(現地にて案内板あり)
「善楽寺」(ぜんらくじ)

 善楽寺とは、戒光院(かいこういん)、実相院(じっそういん)、円珠院(えんじゅいん)の3院の総称である。
 戒光院の境内には、平清盛はこの寺を再興した所以から「伝平清盛供養塔」がある。また、この周囲には源氏物語の明石入道の館があったとされ、「光源氏古跡明石の浦の浜の松」もある。
 戒光院では、宮本武蔵が造ったと言われる枯山水の庭の一部がある。

(現地にて案内板及び説明板あり)
 道路を北へ向かっていくと、左手に橋の見える交差点があり、そのから東西に伸びている道路がある。橋を渡り、そのまま西に向かっていくと「西新町駅」への行き先を案内する看板がある。それに従って、右に曲がり、商店街を過ぎると山陽電車西新町駅に到着し、今回の散策は終わる。

説明文の参考文献:
明石文化財調査団 編『新明石の史跡』あかし芸術文化センター、1997年
『明石市案内図』明石市市長広報公聴課、1995年
財団法人兵庫県学校厚生会 編『明石ゆかりの人びと』神戸新聞総合出版センター、1999年





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