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HPトップ>喜春城と柿本人麿の道

喜春城(明石城)と柿本人麿の道(距離:約6km)

JR・山陽電車明石駅
 ↓ 300m
織田家長屋門〔大明石町2丁目〕
 ↓ 200m
県立明石公園(明石城)
 ↓ 200m
山王権現〔上ノ丸1丁目〕
 ↓ すぐ東
明石神社〔上ノ丸4丁目〕
 ↓ 200m
妙見社〔上ノ丸1丁目〕
 ↓ すぐ東
本松寺〔上ノ丸1丁目〕
 ↓ 200m
亀の水〔人丸町〕
 ↓ すぐ北
月照寺〔人丸町〕
 ↓ すぐ東
柿本神社〔人丸町〕
 ↓ すぐ東
人丸山公園〔人丸町〕
 ↓ 600m
菅公旅次遺跡〔太寺2丁目〕
 ↓ 100m
高家寺〔太寺2丁目〕
 ↓ 600m
明石天文科学館〔人丸町〕
 ↓ すぐ南
長寿院〔人丸町〕
 ↓ すぐ東
馬塚碑〔人丸町〕
 ↓ 300m
熊野皇大神社〔東人丸町〕
 ↓ 300m
両馬川合戦跡〔大蔵天神町〕
 ↓ すぐ南
山陽電車人丸前駅
「喜春城(明石城)と柿本人麿の道」はJR明石駅から始まる
 北口を出ると同時に目の前には堀が現れる。これが明石城の堀である。堀に沿って西へ進む。
 途中で、明石公園の入り口があるが、「織田家長屋門」へはさらに進む。西端近くになって南側に織田家長屋門が見えてくる。
「織田家長屋門」(おたけながやもん)

 織田家は、信長の一族である。明石のかかわりのある織田家は、信長の叔父の家系である。信長との仲が悪く、次第に武田信玄など信長方に敵対する大名に客分として名前を津田姓として身を潜めていたが、やはり織田家は名家であるので、江戸時代初期に松平家に迎え入れられた。その後、1682年に松平直明が明石城主となり、家老格として仕えるために明石に移り住み、やがて、元の姓である織田家に変わった。織田家は明治4年の廃藩置県まで家老職として仕えた。
 織田家長屋門は武家屋敷の面影を残す貴重な建造物であり、明石市指定文化財である。

(現地にて案内板及び説明板あり)

 来る途中にあった、明石公園への入り口に向かう。入り口付近では、毎年秋には明石市の市花である菊の展示会がこの付近で開かれる。第1回開催が昭和元年という伝統的な行事である。
「県立明石公園(明石城)」(けんりつあかしこうえん)
 
 喜春城(きしゅんじょう)は明石城の別名である。江戸時代に入って造られたので天主はないが、天主台はある。現存する巽櫓(たつみやぐら)と坤櫓(ひつじさるやぐら)は、国指定の文化財である。阪神淡路大震災の時に被害を受けたが復興した。土曜・日曜・祝日には櫓の内部が公開され、該当日が偶数日は巽櫓、奇数日は坤櫓となっている。
 公園内には、図書館、文化博物館、野球場、陸上競技場、弓道場、競輪場など、様々な施設があり、市民や県民の憩いの場である。野球場は、夏の高校野球の県予選決勝が開かれるほか、軟式の全国大会の会場ともなっている。
 春の桜は美しく、桜の名所100選にも選ばれている。

(現地にて案内板及び説明板あり)

 入り口に戻り、次は堀に沿って東へ向かう。東端に来ると、次は堀に沿って北へ向かって延びている道路に歩を進める。明石小学校や明石市立文化博物館の前を通り過ぎ、曲がり角に優先道路の交差点があるが、その側に階段が延びているので、そこに歩を進めると小さな公園があり、そのそばに延びている道を進めていく。やがて神社が見えてくる。それが明石神社である。なお西隣には山王権現跡らしきものがある。
「山王権現」(さんのうごんげん)?

 実を言うと、所在地は不明である。しかし、コンクリートの参道らしき道や廃燈籠があり、地図による場所と雰囲気からここだと推定される。写真では倒れたソテツが見えるが、それが倒壊して廃社となったのだろうか。

(現地にて案内板あり)

「明石神社」(あかしじんじゃ)

 明石城主の松平忠常が先祖を祀るために明石城内に建立した。明治初期に城内は御料地とされ、神社は現在地に移設した。
 明石城築城以来、時を知らせた太鼓はこの神社にあり、市指定文化財である。

(現地にて案内板及び説明板あり)

 境内を通り過ぎると右手に坂がある。その坂道は一部分が色ブロックである。これは「時の道」とよばれる周遊道である。亀の水までこれにそって歩いていく。そうすると、「妙見社」「本松寺」「亀の水」と順に現れる。
「妙見社」(みょうけんしゃ)

 春のツツジ、秋の萩の名所として名高い。
 「ぼたん狐」の昔話がある。

(現地にて案内板及び説明板なし)

「本松寺」(ほんしょうじ)

 この寺で有名なのは宮本武蔵が作ったと言われる庭がある。
 宮本武蔵は明石城下の町割りに携わったと言われ、その際に庭も一部の寺で作ったと言われている。
 美しい庭であるが、一般公開はされていない。

(現地にて案内板及び説明板なし)

「亀の水」(かめのみず)

 柿本神社の西参道側にある。江戸時代から現在に至るまで枯れることもなく沸き続けており、飲料用水としておいしく、お茶には最適だと言われている。そのまま飲んでも腹痛は起こさないので、散策の休憩で飲んではいかがだろうか。私は幾度もそのまま飲んだが、今まで腹痛を起こした記憶がない。
 ポリタンクを持って市内各地から汲みに来る人がおり、時間によっては行列ができる。しかし、早朝や夜間の水汲みは近隣住民には迷惑なので、最低限度のマナーを守っていただきたい。

(現地にて案内板及び説明板あり)

 亀の水そばには階段の「柿本神社」の社があり、その階段を上っていく。やがて、「月照寺」があり、隣接して「柿本神社」もある。柿本神社に向かう途中に「蛸壺塚」もあるので紹介する。
「月照寺」(げっしょうじ)

 月照寺は弘法大師が建てたのが始めだとされる。元は明石城の本丸にあったが、築城と同時に柿本神社とともにこの地に移った。山門は、もと明石城の切手門であり、市指定の文化財である。
 境内には「八房の梅」があり、赤穂浪士のひとりが討ち入りの際に寄ったこの地で植樹したとされる。

(現地にて案内板及び説明板あり)

「蛸壺塚」(たこつぼづか)

 松尾芭蕉の旅の最西端地は明石とされている。
 句碑には「蛸壺や はかなき夢を 夏の月」と刻まれている。
 三大紀行文では「笈の小文」で明石について書かれている。
 タコは当時から明石の名産物であり、蛸壺漁も当時からさかんだったこともわかる。しかし、蛸壺漁の歴史ははるかに古く、縄文時代〜弥生時代にはすでに始まっていたとされている。

(現地にて説明板あり)

「柿本神社」(かきもとじんじゃ)

 柿本人麻呂を祀る神社である。柿本人麻呂を祀る神社は多いが、江戸時代に公式に認められたとされている。
 柿本人麻呂は万葉集には巻3の羇旅(きりょ)歌8首がある。それには「あまさかる ひなのながぢゆ 恋ひくれば 明石の門より やまとしまみゆ」と詠んでいる。明石海峡を西へ去り、東へ帰る船旅の歌である。つまり明石より西へ行くことは都から離れる寂しさを一層強くしている。また、逆に東方から都に帰る際には、喜びを表している。明石は都の国境の地ともいえよう。

(現地にて案内板及び説明板あり)

 本殿のわきにある茶屋そばから下り坂になっている道を歩む。右隣には人丸山公園がある。ここで毎朝早朝体操が行われるようである。
 坂を下りきると大きな道路がある。それを上っていく。やがて、5つの道路が交わる交差点があるが、信用金庫と生協に挟まれた道路に歩を進める。すると、左手に碑らしきものが見えてくる。それが菅公旅次遺跡である。
「菅公旅次遺跡」(かんこうりょじいせき)

 901年、藤原氏の策略により太宰府へ左遷された菅原道真が、流される途中に明石を通ったのはこの地であろうと推定されて建てられた碑である。当時はこの地の周辺には明石の駅があったとされている。 
 道真は悲しむ明石駅長に対し「駅長よ驚くな。人の世の栄落も自然の変化と同じなのだから。」と慰めたと言われている。

(現地にて案内板及び説明板あり)

 さらに上って、押しボタン式信号のある交差点の左側に延びている狭い道へ進む。突き当たりに来ると左手に寺らしきものが見えてくる。それが高家寺である。なお、境内は保育園となっている。正門は閉鎖されているので、西門から入り、その際には、境内を駆け回る保育園児に気をつけながら参拝してほしい。
「高家寺」(こうけじ)

 この地には7世紀後半〜8世紀初期にかけて造営された太寺(たいでら)と呼ばれる大寺院があったとされている(その名残からか周囲は現在でも太寺○丁目と呼ばれている)。南東の小高い丘には太寺廃寺の礎石が残されており、県指定の文化財である。県指定ということからかなり重要な寺であったのであろう。
 高家寺は荒廃と復興を繰り返したようであり、明治にかけて無住の時代もあった。

(現地にて案内板及び説明板あり)

 正門前に延びている道路を歩むと大きな道路にたどりつく。右手には先ほど来た5つの道の交差点がある。それを柿本神社からここまできた道を下っていく。人丸山公園を過ぎ、天文科学館にたどりつく。
「明石市立天文科学館」(あかししりつてんもんかがくかん)

 昭和35年に完成した時の町明石市のシンボルである。平成7年の震災により全面改修され、展示内容は一変した。
 天文科学館の売りはプラネタリウムであるが、今では数少ない肉声による解説が一番の売りである。
 子午線の町らしく時計に関する展示も豊富である。最上階にある展望台からの明石海峡の眺めは非常に素晴らしい。
 詳しくは天文科学館のホームページへ。

(現地にて案内板及び説明板あり)

 天文科学館の南隣に位置するのが「長寿院」である。高架まで進める途中に「馬塚」もある。
「長寿院」(ちょうじゅいん)

 ここには明石藩主松平家の9代直明から15代斉宜とその家族が葬られている菩提所である。これらの墓は市指定の文化財となっている。
 なお、長寿院は保育園にもなっている。
 
(現地にて案内板あり)
 ※写真は正門に回って撮影
「馬塚」(うまづか)

 このあたりは源平合戦のひとつである一の谷の戦いに関わりがある。詳しくは後に述べる「両馬川合戦跡」項で述べる。
 この馬塚は平経正の馬を埋めたとされている。経正は大蔵谷で討ち死にしたとされている(諸説あり)。

(現地にて説明板あり)

 高架下に入る前の東西に伸びる細い道のうち東側にのびる道路へ歩を進める。再び交差点があり、車両通行止めではない道路へ歩を進める。上り坂になり、T字交差点になり、右へ延びる道路に歩を進める。やがて鳥居があらわれる。それが熊野皇大神社である。
「熊野皇大神社」(くまのこうだいじんじゃ)

 三木合戦において羽柴秀吉が、別所方の大蔵谷城を攻める際、兵火が稲爪神社にも及んでしまい、仮殿として建てられたのがこの地である。1637年稲爪神社の再建後、明石城主松平光重はこの地に熊野三所権現を勧勧した。

(現地にて案内板及び説明板なし)

 元の道をに戻り高架下には「両馬川合戦跡」碑がある。
「両馬川合戦跡」(りょうまがわかっせんあと)

 一の谷の合戦後、戦いに敗れた一の谷西方の大将である平忠度は西へ落ち延びて行った。それを追いかけた源氏方の岡部忠澄は、この地で追い手に討たれてひとりになった忠度と刃を交えた。そして、忠度は討ち死にした。忠度に関しては「光源氏と城下町の道」にて再び解説する。
 忠度と忠澄が馬を並べて戦った川が両馬川であり、最近まで流れていたが埋め立てられた。

(現地にて案内板あり)

 高架下を左に曲がると山陽電車人丸前駅に着き、このルートの散策は終わる。(平成15年1月23日)

説明文の参考文献:
明石文化財調査団 編『新明石の史跡』あかし芸術文化センター、1997年
『明石市案内図』明石市市長広報公聴課、1995年
財団法人兵庫県学校厚生会 編『明石ゆかりの人びと』神戸新聞総合出版センター、1999年






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