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大久保本陣と高丘の道(距離:約16km)
JR大久保駅
 ↓ 400m
明治天皇御小休所跡〔大久保町大久保町〕
 ↓ 500m
大久保本陣跡〔大久保町大久保町〕
 ↓ 100m
住吉神社〔大久保町大久保町〕
 ↓ 100m
東東光寺〔大久保町松蔭〕
 ↓ 200m
西東光寺〔大久保町松蔭〕
 ↓ 2500m
高丘庫窯跡群〔大久保町高丘2丁目〕
 ↓ 1100m
石ヶ谷公園(カルチャーパーク)〔大久保町松蔭〕
 ↓ 3200m
松蔭新田〔大久保町松蔭新田〕
 ↓ 1100m
林崎掘割渠記碑〔明南町3丁目〕
 ↓ すぐ南
野ノ池貯水池遊歩道〔明南町3丁目〕
 ↓ 400m
王塚古墳〔神戸市・西区〕
 ↓ 1700m
圓通寺〔鳥羽〕
 ↓ 1300m
雲楽池〔藤江〕
 ↓ 100m
森田の住吉神社〔大久保町大久保〕
 ↓ 700m
カゲユ池古墳〔藤江〕
 ↓ 1000m
JR西明石駅
 「大久保本陣と高丘の道」はJR大久保駅から始まる。
 北口を出ると右手にコンビニが2軒見える。そのうち、遠い方のコンビニ前を東西に伸びる道を歩む。やがて、T字交差点に差し掛かるが、この道は西国街道である。その西国街道を右に曲がるつまり、東に歩を進める。やがて右手に洋館風の建物が見えてくる。これが明治天皇小休所跡である。
「明治天皇小休所跡」(めいじてんのうしょうきゅうしょあと)

明治18年、山陽道御行幸中の際に、大久保にてしばしの休憩をとられた所である。

(現地にて説明板なし)
 西国街道をさらに東へ進める。やがて、街道脇には古い民家が少しずつ増えてくる。工事によって新しくなった橋を渡ると、上り坂になるが、蔵や門構えの立派な民家が見えてくる。これが大久保本陣跡である。
「大久保本陣跡」(おおくぼほんじんあと)

 江戸時代、大名の参勤交代などの際の宿泊場所が本陣である。
 古い家並みが続き、昔の街道筋の様子が偲ばれる。

(現地にて案内板及び説明板なし)
 大久保本陣跡に隣接して、常徳寺がある。この寺を過ぎると、右手に踏切が見える交差点に差し掛かる。その交差点を右に曲がり、踏切を渡る。踏切を渡ってすぐに道が分かれるが、右に曲がる。その道を歩んでいくと左手に住吉神社がある。
「住吉神社」(すみよしじんじゃ)
 
 1588年6月に創建されたとされ、この辺りの神社の管理を司っている。
 拝殿の前には青銅の馬がある。
 かつては能舞台もあった。

(現地にて案内板及び説明板なし)
 大久保本陣跡に向かう途中にあった新しい橋の交差点まで戻る。谷八木川の上流に延びている道を北へ向かう。国道2号線を越え、さらに北へ向かう。やがて、交差点には「東光寺」という案内標識があるので、それに従い右に曲がる。さらに進んだ先の交差点でも「東光寺→」という標識があるので、曲がった先にあるのが東東光寺である。
「東東光寺」(ひがしとうこうじ)

 正式名称は真宗大谷派正東山東光寺である。
 山門は大久保本陣から移築されたものである。
 東東光寺の寺宝は「親鸞上人骨」である

(現地にて説明板なし)
 最初の「東光寺」の標識があった交差点に戻る。ここまで北上してきた道をさらに歩を進める。それほど遠くない距離の左手に西東光寺がある。
「西東光寺」(にしとうこうじ)

 正式名称は真宗興正寺派本源山東光寺である。
 代々の住職は学問を好み、寺小屋の師匠としても明石群内では知られており、三木からも学びに来たという。

(現地にて説明板なし)
 再び「東光寺」標識の交差点に戻る。今度は、東東光寺と逆方向の道を西に進む。ちなみにこの道路は太山寺道である。
 かなりの距離を歩いたあと、右手に光触寺が現れる。その光触寺の1つ前の交差点までもどり、右へ、つまり北へ歩を進める。
 やがて生協が左手にあるが、交通量の多い道路を越えてさらに北へ向かう。やがて、右手に池がいくつか現れる。池にそってそのまま歩を進めると、傾斜のある更地が見える。それが高丘古窯跡群である。
「高丘古窯跡群」(たかおかこようせきぐん)

 全国に知られている登り窯跡群である。これらの窯跡群は県指定文化財である。
 ここで発見された鴟尾(しび)は大阪四天王寺へ運ばれる予定だったと考えられている。現在その鴟尾は市指定文化財として明石文化博物館にて陳列されている。

(現地にて説明板あり)
 高丘古窯跡群前をさらに北に向かうと交通量の多い道路に出会う。その道路を右に歩を進めるとT字交差点の前に「石ヶ谷公園」の道路標識が上にある。それを頼りに進めると石ヶ谷公園にたどりつく。
「石ヶ谷公園」(いしがたにこうえん)

 中央体育館を中心に運動場、乗馬、アスレチック、梅林、放牧場などレクリエーション施設がある。
 ここでは友好都市である中国・無錫市から贈られたあずまやの「明錫亭」もある。

(現地にて説明板なし)
 
 元の道路に戻り、南下する。やがて、明石北高校を左手に信号のある交差点がある。そこを左に曲がる。
 そのまま進むと道路は狭くなるが直進していく、一方通行の道路を抜けたらやや広い道路に出るが、それを左に曲がり進む。
 この周辺を見てみると田畑が多いことに気づくであろう。この周辺が松蔭新田である。
「松蔭新田」(まつかげしんでん)

 近年は開発が目覚しいが、この周囲は江戸時代には原野であった。
 しかし、水はなく農地としては不適であったが、1655年に明石城主松平忠国が切り開いた。
 大林寺はその時の建立である。

(現地にて案内板及び説明板なし)
 直進をしていくと次第に道は狭くなってくる。途中で宗賢神社前を通り、やがて竹林のトンネルをくぐる。それを越えてしばらくすると再び竹林が現れる。すると次は小川が現れる。これが林崎掘割である(左写真)。
 竹林内の掘割の流れる方向に従って歩を進めると、大きな碑が見えるこれが林崎掘割渠記碑である。
 その先にある池が野乃池貯水池であり、全周2kmほどあり、遊歩道として整備され、散策やジョギングに最適でマラソン大会も開かれる。
「林崎掘割渠記碑」(はやしざきほりわりきょきひ)

 林崎掘割とは、この辺りは印南野台地上にあって、溜池を作っても水が流れ込まず、明石川から野々池に水を引こうと開発した水路である。掘割は全長5374mもあり、また、平地から台地に水を引くことは江戸時代にとっては大工事であった。工事を始めたのは1657年10月で、完成は翌年4月である。その結果、日照りから悩まされることはなくなった。掘割は現在も灌漑から救っている。
 渠記碑は、その記念碑である。竹林に囲まれた掘割は現在も雰囲気を残し、水が静かに流れている。
 渠記碑は市指定文化財である。

(現地にて説明板あり)
 林崎掘割渠記碑の前にあった住宅地に続く道路をそのまま歩を進める。やがて出合小学校に達し、出合小学校を越えた2つ先の交差点を右に曲がる。上り坂となり、前方に緑が見える。その緑のあるところが王塚古墳であり、公園となっている。
「王塚古墳」(おうつかこふん)
 
 古墳時代中期の前方後円墳で、明石川流域では最大である。
 欽明天皇の皇女である舎人姫王の墓と考えられ、宮内庁に保護されているため発掘調査はできず、詳細は不明である。

(現地にて案内板あり)
 王塚公園の入り口にあった交差点を右に曲がる。やがてT字交差点に差し掛かり左に曲がる。そのまま直進していくと「車両通行止め」の上り道がある。それを上る。上ると目の前に生協が見える。とりあえず生協まで目指す。生協前には交通量の多い道路がある。その道路を右に、つまり西に向かう。明石南高校前を通り、コンビニが現れる。コンビニの隣にある寺が圓通寺である。
「圓通寺」(えんつうじ)

 墓地にある「報徳碑」には、明石城主の松平信之の善政について書かれている。

(現地にて案内板及び説明板なし)
 
 圓通寺前の道路を南に歩を進める。距離があるがやがて国道2号線に差し掛かる。その直前に交差点がある。そこを右に曲がる。これは西国街道である。国道2号線に合流する前に右手に堤防らしいものが見えるそれが雲楽池である。
「雲楽池」(くもらいけ)

市内でも広大な溜め池のひとつであり、藤江地域の農業水利である。

(現地にて案内板及び説明板なし)
 国道2号線を越える西国街道の先には電気店が見える。そのそばの道を歩む。やがて、右手に改築された新しい鳥居が見えてくる。それが森田の住吉神社である。
「森田の住吉神社」(もりたのすみよしじんじゃ)
 
 この周囲の村の鎮守である。
 裏には明石城主の松平信之供養塔がある。

(現地にて説明板なし)
 森田の住吉神社の直前の交差点まで戻る。その先には踏切がある。その踏切を渡ると、左手にガードレールでふさがれた車両通行止めの道路がある。そこを歩む。そのまま歩くと「明石市公設地方卸売市場」の北門に達する。その北門の東に続く道路を歩く。やがて、左手にカゲユ池古墳が現れる。
「カゲユ池古墳」(かげゆいけこふん)

 江戸時代にこの周囲には古墳があったが、新田開発に伴って、溜池としたカゲユ池と呼ばれる池があった。しかし、祟りを恐れてか、6基のうち1基だけ残した。現代になって、市場を建てる際に埋め戻されたが、残された古墳が、カゲユ池古墳である。
 発掘調査の結果、6世紀に建てられた横穴式石室の円墳だとわかった。
 市指定文化財である。

(現地にて説明板あり)
 国道2号線まで戻り、東に歩を進めていくとJR西明石駅に着き、このルートの散策は終わる。(平成15年1月13日)

説明文の参考文献:
明石文化財調査団 編『新明石の史跡』あかし芸術文化センター、1997年
『明石市案内図』明石市市長広報公聴課、1995年
財団法人兵庫県学校厚生会 編『明石ゆかりの人びと』神戸新聞総合出版センター、1999年





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