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長坂寺廃寺と秀吉の道(距離:約12km)
JR魚住駅
 ↓ 700m
遍照寺〔魚住町長坂寺〕
 ↓ 400m
小式部内侍供養塔〔魚住町錦が丘3丁目〕
 ↓ 1300m
浜西のヒメコマツ〔魚住町清水〕
 ↓ 1100m
幣塚古墳〔魚住町清水〕
 ↓ 900m
西福寺〔魚住町清水〕
 ↓ 100m
清水神社〔魚住町清水〕
 ↓ すぐ南
清水五輪塔〔魚住町清水〕
 ↓ 1500m
長坂寺廃寺跡〔魚住町金ヶ崎〕
 ↓ すぐ東
大道池〔魚住町金ヶ崎〕
 ↓ すぐ南
茶屋跡・祈りの松道標〔魚住町長坂寺〕
 ↓ 800m
正覚寺〔魚住町金ヶ崎〕
 ↓ 200m
金ヶ崎神社〔魚住町金ヶ崎〕
 ↓ 400m
宗賢神社〔魚住町金ヶ崎〕
 ↓ 1600m
光触寺〔大久保町大窪〕
 ↓ 1000m
JR大久保駅
 「長坂寺廃寺と秀吉の道」はJR魚住駅から始まる。駅前にはこのルートの絵地図が建てられているので、まずはそれをご覧の上、ルートを頭にいれておいてもらいたい。ちなみにロータリーにある兄弟像は「一番星の像」である。
 針路は東へ、JR線に沿って道路があるのでそれをずっと東に進む。やがて踏切があるが、さらに歩を進める。2つ目の踏切に差し掛かると行き止まりであるが、そこから北へ、つまり踏み切りを渡らない側の道路に歩を進める。2車線道路となり、やがて左手に墓地が現れ、そこに遍照寺がある。
「遍照寺」(へんしょうじ)
 遍照寺はもと28院を持つ大寺院であった長坂寺の塔頭のひとつである。
 聖徳太子建立と伝えられて、「魚住の太子さん」と親しまれている。
 境内にある別所長治供養の塔は、秀吉の長坂寺の戦火によって、犠牲になった魚住の人たちの供養塔とも言われている。

(現地にて説明板なし)
 来た道に戻る途中、最初の曲がり角に右手に道がある、そこを歩き、最初の交差点で右へ、さらに交差点を左へ行く、下り道に差し掛かるが、その直前の右手に木が茂っておりそこに小式部内侍供養塔がある。
「小式部内侍供養塔」(こしきぶのないじくようとう)

 和泉式部が亡き娘を偲び、皇居にあった「小式部祈りの松」をこの山に植えた。
 しかし、松は明治時代に切り取られ現存しない。

(現地にて説明板あり)
 坂を下ると、遍照寺を向かう際に差し掛かった踏切が見える。そして、JR線にそって一度魚住駅に戻る。
 魚住駅に着いたら、今度は西へ針路を向ける。踏切から先は上り坂になっており、その道に歩を進める。上りきると、やや交通量が多い道路に出るが、そこを北へ、つまり新幹線高架と反対側へ歩を進める。途中で、農協、交番、薬局などがあり、この道路は「魚住センターロード」と呼ばれている。
 歩を進めていくと交差点側にスポーツショップがあり、そこを左に曲がる。さらに歩むと「ヒメコマツ」の案内標識があり、それにしたがっていくと、民家の中に浜西のヒメコマツがある。
「浜西のヒメコマツ」(はまにしのひめこまつ)

 天然記念物の五葉松である。

(現地にて説明板あり)
 元の道に戻り、さらに歩を進めると右手に大きな工場(キャタピラー三菱)がある。そのまま歩を進めると団地が現れるが、工場の敷地に沿ってT字交差点を右に曲がり、やがて魚住中学校が現れる。T字交差点をさらに右に曲がると高層団地が2つある。高層団地の敷地の末端に交差点があり左に曲がる。目印は保育園である。保育園前の道に歩を進めると祠があり、そばに丘がある。それが幣塚古墳である。
「幣塚古墳」(ぬさづかこふん)

古墳時代前期に造られた明石市最大の円墳であり、金鶏伝説が信じられていた。
明治初期に発掘された勾玉などは東京国立博物館に送られたとされるが、該当品なしと言い、所在は不明である。

(現地にて案内板及び説明板なし)
 魚住中学校から続く道に戻り、歩を進める。国道2号線を越えると清水の集落が近づいてくる。道は次第に狭くなり、交差点が現れる。その交差点を東西に伸びる道路が西国街道である。交差点を左に行くと右手に西福寺がある。
 西福寺そばの交差点に立派な道標があるので、それもご覧いただきたい。 
「西福寺」(さいふくじ)  

 この周辺にはまむしが出ないと言われている。それは昔、まむしに悩まされていたが、西福寺の阿弥陀の子指をまむしに与えたところ、まむしはいなくなったという。小指をつけると再び出没するので、阿弥陀如来像の小指はかけたままである。

(現地にて説明板なし)
 手前の西国街道に戻り、逆に歩を進めていくと長い上り坂がある。上り坂の中間点には清水神社がある。
「清水神社」(しみずじんじゃ)

 この神社の境内にある石でイボをこすると取れると言われている。本堂にはお礼の猿のヌイグルミがぶら下がっている。

 毎年6月下旬の田植えが終わった時期に行われる「おっくはん」は市の無形民俗である。おっくはんとは、北3kmにある弁天池まで、羽織・袴・ぞうり姿に桑の木で作ったクワに金色の御幣を持った氏子4名が歩いて向かい、池にクワを浸したあと、般若心経を唱えながら戻り、豊作を祈る伝統的な行事で、250年以上も続いている。

(現地にて説明板あり)
「清水五輪塔」(しみずごりんとう)

清水神社の向かいの墓地内に建てられている。
南北朝時代の戦乱犠牲者の供養塔と考えられている。
 (県指定文化財)

(現地にて説明板あり)
 西国街道を再び歩を進める。次の長坂寺遺跡まで1,5kmもあるが、歩きながら自動車も自転車もない時代に、同じ道を歩いていった昔の人たちの思いを馳せてはいかがだろうか。
 信号のある交差点を渡ると、長い下り坂に差し掛かる。その坂を下る前に左手に民家があり、民家前に長坂寺遺跡の木碑が建てられている。
「長坂寺遺跡(長坂寺廃寺跡)」(ちょうはんじいせき)

1579年、秀吉の三木合戦の際に、長坂寺は戦火によって廃儘に帰した。
「浜の播磨路」編に出てくる、魚住城があったことからこの地が狙われたのであろう。
長坂寺は、奈良時代の瓦出土地から大道池周囲にあったといわれている。

(現地にて説明板あり)
 再び山陽道に戻り、すぐに左手に大道池がある。また、右側の池の手前先端にある木の下に祈りの松道標がある。
 この辺りは松が多く、京都の嵯峨に似ていたらしく「明石の嵯峨」と呼ばれていた。
 休憩するための茶屋もあったらしいが、現在は面影がまったくない。
「大道池」(だいどういけ)

記録によると、西国街道のこの辺りには大道池があったとの記述がある。
つまり、この池がこの道が山陽道の証拠である。

(現地にて案内板及び説明板なし)
「祈りの松道標」(いのりのまつみちしるべ)

この写真ではわからないが、写真の
左面には「小式部内侍○」
右面には「魚住之○」
が書かれている。(○以下は判読不可能)

小式部内侍供養塔そばには松が植えられていたことから、それを導く道標であろう。

(現地にて案内板及び説明板なし)
 山陽道をさらに東へ。団地をすぎて徐々に道が狭くなってくる。やがて、左手に正覚寺が見えてくる。
「正覚寺」(しょうがくじ)

「一寸八分の観音さま」が有名である。
本尊の阿弥陀如来は、織田信長が秀吉に与えたものを寺に納めたといわれている。
寺宝に親鸞上人自作の上人寿像(座像)がある。

(現地にて説明板なし)
 正覚寺を出て山陽道を進めるとすぐに道が分かれ、左写真にあるような道標に出会う。
 太山寺(たいさんじ)とは神戸市西区にある平安時代の古刹であり、後白河上皇が参詣したことのある寺院である。
 太山寺詣では西国街道に接続するこの地から始まる。大山寺道はここから大久保町大窪〜松蔭〜鳥羽新田〜野乃池〜玉津町出合〜玉津町今津〜(不明)〜伊川谷町潤和〜太山寺となる。

 さて、この道標を右に歩を進める。やがて、左手に鳥居が現れる。鳥居の先にある神社が金ヶ崎神社である。ここで西国街道とはこの散策ではお別れである。
「金ヶ崎神社」(かながさきじんじゃ)

旧名は黒岩神社。ご神体は2mの黒石である。
この石は神功皇后が三韓出兵の際にふところに入れておられたという。

(現地にて説明板あり)
 金ヶ崎神社手前の道路を東に歩を進める。ちなみにこの道は太山寺道である。少しずつ上り坂になってくると同時に道が分かれる。ここで、上らない方の道に歩を進め、田んぼから神社らしい建物が見えるが、それが宗賢神社である。
「宗賢神社」(そうけんじんじゃ)

周辺の村の鬼門を守る神社であり、水口を見守る神社である。

(現地にて説明板なし)
 再び東に歩を進める。次第に道が狭くなり、車が1台しか通れないほどの狭さである。そのまま歩を進めると再び左写真のような道標に出会う。その場所で道が分かれているが道標に従い、右に針路を進める。
 進めるとやがて大きな道路に出る。手前には工場(富士通・コカコーラ)があり、山陽道は金ヶ崎神社から離れたが、離れなくとも一旦ここで途切れている。
 工場に沿って、北へ東へ歩を進めていく。長い直線の道路が続き、工場敷地の末端にある、信号のある通行量の多い交差点を越えて、そのまま直進を続けていくと光触寺が現れる。
 (太山寺道はこの先も続いている)
「光触寺」(こうそくじ)

三木合戦の時の秀吉の本陣跡である。
境内の太閤腰掛松は3代目という。
写真の門は薬王門といい姫路藩寄進と伝えられている。

(現地にて説明板あり)
 先ほどの交通量の多い信号つき交差点まで戻り、今度は南に針路を取り歩を進める。やがて国道2号線に達し、横断するとJR大久保駅に着き、このルートの散策は終わる。(平成15年1月11日)

説明文の参考文献:
明石文化財調査団 編『新明石の史跡』あかし芸術文化センター、1997年
『明石市案内図』明石市市長広報公聴課、1995年
財団法人兵庫県学校厚生会 編『明石ゆかりの人びと』神戸新聞総合出版センター、1999年





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